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その日、タマゴホウシはいつになく上機嫌であった。 射し込む陽の恵みをスポットライトに、床の上でターン、ターンを繰り返していた。気紛れに叩く私の拍手に気を良くし、飛び上がって宙返りまで披露する。その様子は、私が記憶の奥底に沈めていた幼い頃の記憶を呼び起した――。 ――いつか、街にやってきたサーカスを、父に手をひかれて観に行ったことがある。鉛色の鉄棒とロープで固定された厚手のビニルテントは薄暗く、見た目よりもずっと多くの人を収容した熱気であふれていた。ピエロの格好をした男がサテンの衣装に縫い付けたいくつものポンポン飾りを揺らして、客席をぬいながらポップコーンやアイスクリームを売り歩く。父は私にオレンジ色のアイスキャンディを買ってくれた。普段ならそんなもの、買ってはくれなかったから、私は驚いて「いいの」と訊いた。父は自分用に買ったサイダーを一口飲んで「溶けるから早く食べなさい」とだけ、言った。 けたたましいファンファーレ。軽快な音楽。交差する光の効果。ぐるりと客席に囲まれた舞台の中心に、まず現れたのは、さきほど客席で物売りをしていたピエロだった。三色のセロハンで作り出されたスポットライトを一身に浴びて、恭しく頭を下げたピエロは真っ赤な鼻を大袈裟に弄って見せた。すると、むくむくと手の中から同じ色のボールが現れる。次にもじゃもじゃとカールした黄色い髪に手を入れると、黄色いボールが現れた。拍手が上がって、ピエロは得意気に胸を張る。最後にズボンの中から取り出した青いボールとで高い天井の骨組みに届きそうなほどのジャグリングをして、花道を手を振りながら帰って行った。 次に出てきたのは五匹の猿だった。四足でかけてきて、それぞれの立ち位置に落ち着くと、すっと二本の足で立ち上がってポーズを決めた。歓声。猿たちはどこからか聞こえる笛の合図で平均台を素早く走り抜け、ハードルを飛び越え、マットの上で前転した。しかし、決まって最後の一匹だけがそれらの障害物を素通りし、すでに演技を終えた群れの中に戻って自ら手をうち、拍手を強請るので客席の笑いを誘う。結局最後まで、その一匹が演技を成功させることはなかった。 それからいくつかの演目を経て、休憩をはさみ、いよいよサーカスも佳境。スパンコールの鱗が輝くタイツに身を包んだ男女が二人ずつ、舞台の両脇から天井へとそびえる鉄の骨組みを落ち着いた、規則正しい動きで登ってゆく。頂上まで辿り着いたとき、一人が垂れ下ったブランコを固定していたフックを外し縄を掴んだ。もう一人がしゃがみ込み、足元に置かれた箱に手を入れると、白い粉が舞ってきらきらと光る。粉をはたいて数度、解すように手の平をにぎり、ひらいて、ブランコに足をのせる。さきほど、火の輪をくぐったライオンの咆哮のように銅鑼の音が鳴り響いて、後ろでブランコを支えていた手が放された。観客全員が、期待と恐怖で喉を鳴らしたのがわかった――。 ――あ、そう思ったときにはもう遅かった。タマゴホウシはぐったりと猫の口から頭と左腕、それから右足を投げ出してピクリとも動かない。すっかりと、事切れているようだった。私は猫を追い払うことも忘れて、日の光で温められた床に崩れ落ち、自失する。さっきまでタマゴホウシが踊っていた明るいステージ。穏やかな日差しが肌の上をちりちりとくすぶっている。猫は潰れた方の目で私をちらりと一瞥すると、鼻を一度鳴らして音も立てずに去っていった。 私は泣いた。そう気がつく前に、涙が頬を滑り落ちた。自分がはたして、どれほどあの小さな生き物のことを想ってはいたのかはしれない。それは土に撒いた細かな種子の成長を、静かに見守るかのような気持ちだったろうか。目を伏せると再び、涙がこぼれおちる。タマゴホウシの嫌う、塩辛い、味がした。 タマゴホウシとの突然の別れから一ヶ月、私はオルゴールにしまっていた卵の殻を砕いて、色は塗らず、ただ並べただけのモザイク画を作った。もともとあった模様が、見ようによってどんなものにでも見える。私は毎日、その移ろいを楽しんだ。 タマゴホウシのモザイク画は額に入れて、一番彼が好むであろう、砂糖ポットのそばに飾っている。 |