召し上がれ

 冷蔵庫の中で緑色をした箱が傾いている。5日も消費期限の過ぎたロールケーキ。一度も食べようと思わないままに忘れたふりをしているのだ。捨てることさえ煩わしい。それをくれた人の顔のように甘ったるく塗り清められたケーキを思い浮かべるたび、どろりどろりと濁りだす心の内を撫でまわす。
 “この前はどうもありがとう。いきなりごめんなさいね。ああ、これお土産。大したものじゃないんだけど。女のコだもの、やっぱり甘いものがいいかと思って”
 そう言ってやってきたあの人のことを、私は心底嫌っていた。社会人として、私は彼女を家に上げ、お茶をすすめ、他愛のない話をして微笑みあったけれど、改めてお礼の電話などはしていない。だって嫌いなんだもの。

「なるほど。坊主憎けりゃ、ふふふふふんってやつか」
 自分の家と同じくらいに深く知り尽くした狭い狭い台所で、生島くんは何かと忙しく、けれども要領良くクルクルと動き回っていた。コーヒーカップや砂糖、ミルクを取り出しながら私の話も器用に聞いて、一体私の話の何にそれほど感心したのか頭を上下に揺らしている。
「ふふふふふんってなに」
「ふふふふふんは、ふふふふふんだよ」
「なんとやら、じゃなくて」
「なんとやらって、なんとやら」
 噛み合っているのだかいないのだかわからない問答をしながら、生島くんは右手に二つのカップ、左手に砂糖とミルクを入れた小鉢をふらふらと危なっかしく持ってきて、私が肘をつくローテーブルにそれらを頓着せずに並べてゆく。私はゆるゆると両肘をのばすと「はい、どうぞ」と置かれたコーヒーカップの持ち手に指をかけ、自分で最も美しいと思うフォームでごくりと喉を動かした。湯気の水っぽい匂いとコーヒーの香りが鼻から脳へと通りすぎてゆく。
生島くんの淹れてくれたコーヒーはおいしい、と思う。酸味がどうだとか、苦味がどうだというわけではなく、喉がカラカラに渇いているときに飲む水のような味がするのだ。豆も水も淹れ方も、私と何一つ違わないのに。

「しかし勿体無いなぁ」
 砂糖五杯とミルク三つをカップの中に注ぎいれた後、生島くんが冷蔵庫を振り返りながら言った。
「食べたければ食べなよ」
「さすがにもう、カピカピでしょう」
 私の方に向き直り、手元のカップをかちゃかちゃと鳴らした生島くんのコーヒーは白い。その白さに私は少しイライラとした。
「私だってそのうち、カピカピになるよ」
 だからこれは八つ当たりだ。意地悪だ。一瞬、わけがわからないといったようにキョトンとした生島くん。それからすぐにキョトンとした目をそのままにして眉間に皺を作った。
「カピカピになったら、愛してくれないの」
 私はなんて意地が悪いのだろう。――いやしかし、必ずしも私だけが悪いということはないかもしれない。生島くんが冷蔵庫のアレに気付くことなく、気付いてもそれきり惜しいなどと思わず澄ました顔で馬鹿みたいなコーヒーを啜っていれば、私は相変わらず冷蔵庫を開けるたびに濁る心を撫で回しているだけでいられたのだ。けれど生島くんはあろうことか、そのロ―ルケーキを物欲気にするなんて。私がロールケーキによせる感情を知っていながらの生島くんの罪は重くもないがけして軽くもない。
「生島くんの愛はその程度のものなの」
 生島くんが低く唸る。
「あー」でも「もー」でも「うー」でもない濁った音は、つまりは「面倒臭いなあ」と言っているのだ。こういうとき、彼はそれを隠そうとしない。隠そうとしないどころか、低く低く唸った後は、めいっぱい嫌な顔をして重い重いため息を吐き、それっきり黙り込むのだ。まるでそれが決まりきった一連の儀式であるというように。けれどこれは生島くんだけに降りかかる災難などではないの。しかもその災難の十分の一は生島くん自らが呼び起こした災難である。女というのはこうして突拍子もなく、イライラしていてもしていなくても面倒臭いことを言い出すものであって、それをうまくやり過ごせない生島くんのような男は不器用なのである。 「それじゃあ、こういうのはどう」
 しかし今日の生島くんは一味違った。黙り込む代わりに私にひとつの提案を持ちかけてきた。
「久梨子さんのことなら、かぴかぴになっても愛してあげる」
「気持ちが悪い」
 ああ、なんてことだ。私は思い切り顔を顰めてしまった。忌々しく、苦々しく、卑々しく。私は不器用な生島くんの姿を見て清々とした気持ちになりたかったのに。女の扱いに器用な生島くんなんてちっとも面白くない。甘いものは不愉快だ。舌に絡む甘さに翻弄されて、隠された不快感に気付かないほど味覚オンチではないのだと思いたい。そんな私の言葉に生島くんは腹立たしくも、可笑しそうにを手の平でテーブルを叩いて喜んだ。それからカップに口をつけて、もう一度、黄色いローテーブルをばんばん叩くので私はすっかり毒気を抜かれてしまい「猿みたい」と言ったきり、こちらの方が黙ってしまった。