kujira

 圭子の話は、こんな一言から始まった。
「ねえ、イルカ漁って知ってる」
「イルカを、捕まえるってこと」
 問い返した私に彼女は首を振り、マグカップになみなみ注がれたジンジャーティーを一口飲んで「そんな単純なことじゃないのよ」と殊更に強い口調で言うので、私は心底驚いてしまった。
「そうなの」
 自分自身がこぼした相槌も、見かねた誰かが代わりに吐きだしたかのようにさえ思えて咳ばらい。
「これって、とても深刻なことよ」
 それからの彼女は、いつもよりずっとよくしゃべった。
 付き合って1年と3か月だという新田くんの話をするときよりもずっと。

 相槌の数って、一体いくつあるのだろう。
 なんとか彼女との会話が成り立つようにと、そんなことを考える。
 熱心に、イルカ漁の悪名高さを懇ろに語る友人には悟られぬように。
 なるべく、肯定することも否定することもせず。
「イルカを殺して食べてしまうなんて、信じられる」
「へえ」
「あんなに賢くて、可愛らしいイルカをよ」
「うん」

 つけたままのTVは、二人で見ていたはずのラブロマンスから、先月の初めに起こった殺人事件の進展のなさを嘆く報道番組に変わっていた。
 先月の初め、子供やお年寄りを含めた一家5人が、ナイフで滅多刺しされた変わり果てた姿となって、押入れの中から発見されたのだ。
「捕鯨がダメなら、イルカだって同じに決まっているじゃない」
 そうなのだろうか。私には、よくわからない。
 だいたいイルカも、クジラさえ私は口にしたことがなかったし、イルカとクジラの共通点と言えば“海に棲む哺乳類”ということだけしか思いつかなかった。
 それが“捕鯨がダメならイルカだって同じ”という理屈になんとなく結びつかないのだ。
 それならば、人間が殺されるのだからイルカやクジラも殺されて当然だという理屈も成り立ってしまうような気がした。

「イルカ漁師はね、たくさんの船で入り江に追い込んだイルカをナイフで襲うのよ」
 圭子の言葉に熱がこもる。
「青い海が真っ赤に染まるの」
 まるでそれを目の当たりにしてきたように。
「ねえ、洋子、そんなことって、考えられる」
「さあ、どうかなあ」
 考えられない。だから私は、見てみたいと思った。
 青い海が、真っ赤に染まるところを――。

「それでね、今度キャンペーンがあるの」
 そう言って圭子がこたつの上に広げて見せたのは、自身が着ているそれと同じものだった。
 人一倍、おしゃれに気を使う彼女が随分と子供っぽい服を着ていると思ったら、そういうことだったのか。
 マンガちっくに描かれたクジラとイルカが向かい合ってハート型を作っている、水色のトレーナー。
 ――ああ、これ、洗濯するとすぐにぱりぱりになってしまうのよね。
 もこもことしたクジラのお腹のしましまを爪の先でこすりながら思う。
 現に圭子のイルカもクジラも、もうあちこちひび割れてカビの生えた鏡餅のようだった。
「一人、一枚なの」
「そうよ。だってまだ まだ小さな団体だもの。そんなにたくさん作れないわ」
 私の、意味のない質問に言い訳をするように圭子は早口でそう言って、ぐいとトレーナーを私の方に押しやった。ハートが歪む。
「私、参加するなんて一言も言ってない」
「でも、参加してくれるでしょう」
「どうして」
「どうしてって、洋子ったら、私の話を聞いていて何とも思わなかった」
 顔を顰めた圭子に、私はうつむくことで応える。
 青い海が赤く染まるところを見たい、とは思ったけど。
 そんなこと言えるはずもない。
「普段、着るだけでも違うのよ。買い物でも散歩でも、なんでもいいの。とにかく、知ってもらうことが重要なんだから」
「――そう、そうね……」
 長い沈黙の後、恐々と受けとって膝の上に広げたトレーナーを凝視した私を圭子が満足そうに眺めているのを、なかなか顔を上げることができずにしばらく感じていた。
 この後、一体どうやって、どんな話をすればいいのだろう。
 私はまだほのかに温もるジンジャーティを、惜しむようにゆっくりと飲み干して「そろそろお暇するわ」と圭子に告げた。

 マフラーをぐるぐると巻きつけて、すっかり暗くなった夜道を歩く。
 冷たい空気が星空を美しく見せていた。
 それにしても“ほげい”って、なんだかまぬけな響きよね。<

 ほ
 げ
 い

 ゆっくりと、心の中だけで唱える。
 あえて、はっきりと発音することは避けて。
 ほげえ……。
 ほげえ…………。
 ほげえ………………。
 ――ほら、やっぱり。もっと早くに気づけばよかった。
 そうしたら、圭子の話だって、どぎまぎせずに落ち着いて聞けたのに。
 これならきっと、明日圭子に会っても平気じゃないか。

   駅について、エスカレーターに乗る。
 単純なもので、私の心はもうすっかり穏やかになっていた。
 少しずつ、エスカレーターの動きに合わせて駅の構内に並んだケーブルTVのデモンストレーションが見えくる。
 切符を取り出し、顔を上げるとてらてらと光るイルカが、私の目にとび込んできた。
 調教師の合図を受けて、フラフープをくぐり、水の中に潜り、ジャンプ。
 くす玉からだらりと垂れ幕が下りる。
 “ツマサブロウくん・ミツゴロウくん、お誕生日おめでとう!”

 ぞくりと背中が泡立つ。エスカレーターが到着したのは、ちょうどそのときだった。