夜の蛾

 頼りなげな小さな背中を、徐々に闇へと溶かしてゆこうとする彼女をこちらに引き戻すのは容易いことではなかった。
「もうあきらめよう」「どうせ見つからないんだから」
 そう何度口にしかけてやめたろう。それは言葉を呑み込むというよりも、むしろ胸に積み上げられた強固な障壁を乗り越えることができなかったのだといえた。
 無理矢理に壁を討破ったが最後、僕の方が彼女からどこか遠いところへと引き離されてしまいそうだったからだ。

 彼女が自分の身に降りかかった小さな異変に気付き、深い迷宮へと迷い込んだのは、僕に家まで送り届けられ、さよならの挨拶をし、頭を軽く下げたためにすべり落ちた髪の毛を耳にかけ直そうとした、まさにその時であった。
 もう夜も遅いからと止める僕の言葉も聞かず、来た道を引き返し始めた彼女を追いかけたのは一体何時頃のことであったろう。今夜は星がないねと言い合ってから、もう随分が過ぎていた。
 それから僕らはもうずっと、彼女が「ここを歩いていたときには確かにあったのよ」と言う金融会社の張り紙のされた電信柱から彼女の自宅までの道を往復していた。

 彼女の右手には、我を忘れたようなその行動とは些か不釣り合いな冷静さで自宅から持ち出された古めかしい大きな懐中電灯とガラス製のチャームのついたイヤリングの片割れがしっかりと握られている。
 クレープ状に広がった懐中電灯の明かりが何かを捉えるたびに彼女はその場に固定されたようにぴったりと立ち止まり、時に振り返り、ゆっくりと首を揺すって周囲をさぐる。
 しかしその先にあるものは大抵、丸みを帯びた小石だったり、腫瘍のように歩道にはりついたガムだったり、まったくの気のせいであったりした。
 それでも、彼女は微塵も落胆する素振りを見せず、何事もなかったようにまた歩き出しては同じことを繰り返す。その姿はまるで機械じかけの人形のようであった。

 彼女の視線はいよいよ、白々と照らされたアスファルトを見ているというよりも陰暗とした穴を覗き込むように円形状に広がった光の先の先を見ているような危うげなものになってきていた。
 舗装された道から、ぽつぽつと乾きかけの泥が点在する畦道へと足を踏み込んでずんずんと僕の前を歩む彼女は、足元の変化や、どこを歩いているかさえ、もうわかってはいないだろう。
 刈入れが済み、陶芸用の土のようになった田んぼ。つぶらな瞳をしたうさぎの遊具が眠る公園。青い屋根のくすんだ住宅。上部についた数個の電球に照らされる学習塾の大きな看板。分かれ道の先にある駅が呼吸する気配。
 そういった景色の変化を時折目に入れている僕でさえ、僕らは同じ道を行ったり来たりしているわけではなく、ただ同じものが無数に並んでいるだけの途方もなく長い一本道を歩いているのではないかと感じ始めていた。

――ねえ、きいてくれる?最近ね、すごく嬉しいことがあったの。
 普段よりもずっと速いペースで歩く彼女に置いてゆかれないよう、僕は疲れの滲む足を懸命に動かした。彼女にならば、僕はいくらだって付き合っていられる。
 しかしその反面、そうした彼女に追いつこうと躍起になればなるほどに、僕の心が孔の塞がれた鈴のようにカラカラとおかしな音を立てることにも気がついていた。
――あのね、最近はピアスの方がずっと主流でしょう?だから、お店に出ているイヤリングの数ってピアスなんかよりもずっとずっと少ないの。ひょっとすると、イヤリング なんて置いていないお店だって、あるんだから。素敵なイヤリングとの出会いって本当に少ないのよ。でもね、これ見て。すごく可愛らしいでしょう。少し高かったんだけど、迷っていたら彼がプレゼントしてくれたの。それから毎日、つけているのよ。
 彼女が僅かに頬を赤く染めて、耳元の小さなハートのイヤリングを揺らしながらその話したのは、大学の食堂に面したテラスで二人していつも通りの簡単な昼食を摂っているときだった。
 僕の中で響いていたおかしな音はそのような暗鬱たる記憶を呼び起こし、陰圧としていた感情が、それによって生まれた細かなひび割れから溢れ出てきた。
 そして僕は、イヤリングなんて本当はどうでもよかったことに気づかされてしまうのだ。
 あきらめるだとか、どうせ見つからないだとか、そんな生易しい気休めのようなものではない。むしろ、なくなってしまって清々している。
 そうだね。可愛いね。良かったね。そんな言葉、みんな嘘だった。
 僕は彼女に引き離されまいとぴったりと付き従っていたつもりで、しかし実際はまったくそうではなかった。
 そもそも、彼女を隙あらば、こちらに引き戻そうと考えていた時点で僕らの距離は取り返しがつかないほどに離れてしまっていたのだ。
 彼女が手にする光源に、暗闇に白く浮き出た一匹の蛾がふうらふらと引き寄せられ、またすぐに引き離される。そして再び、暗がりの中に消えていった。