「魔法使いになりたいなぁ」 屋上のフェンスを背にして彼女は呟いた。 またわけのわからないことを言い出したなぁと思いながら「なんで?」と相槌をうつ。 「ほら、こうさ、ぴゅーっと行きたいわけよ」 「どこへ」 「ぴゅーっとさ」 ちっとも答えになってない。でも、これもいつものこと。 彼女と一緒にいたいと思ったら、心は自然と広くなる。 「ぴゅーっと行って、それからどうするの?」 彼女といるときの僕はいつも聞きたがりだ。そうやって、いくつもいくつも質問を繰り返すことで本当に彼女が思っていることに少しずつ近づいていく。 「ぴゅーっと帰ってくる」 「へぇ、ずっとそこにはいないんだ」 「うん。ずっとはいない」 僕は少し安心した。魔法使いになんてなれるわけないんだけど、それでも彼女は突然魔法使いになってしまいそうだから。 そして、学校の掃除箱からくすねてきた箒でぴゅーっとどこかに行ってしまう。 もちろん、僕は連れて行ってもらえない。僕は彼女が帰ってくるまで、何年、何十年と待っているつもりだけど、やっぱり待つ時間は短いほうがよかった。 「ガラスの靴をね、持って帰ってきてあげる」 彼女はそう言って、片方の足を少しだけ前に出した。 履き古されて灰色っぽく汚れた上靴は先っちょがゴムでできていて、真中の帯びになったところに滲んだ水性ペンの線で名前が書いてある。 ヘタクソな字だなぁとちょっと思って顔には出さずに笑った。そのヘンテコな字が、すごく彼女らしかったから。 「僕にくれるの?ガラスの靴を」 彼女は頷いて出していた片方の足をぶらぶらと持ち上げた。 「片方だけだけどね」 「片方だけ?」 「ガラスの靴はお互いを引き寄せるの。だから王子さまはシンデレラを見つけられたんだよ」 『なんでさ』と僕が言わないうちに彼女は言った。 これは、喜んでいいんだろうか。 滅多にこんなこと言わないから、都合よく考えてしまいそうになるよ。 君の言葉をゆっくりゆっくり手繰って解いていかないといけないのに、いっぺんに引っ張ってしまいそうになるよ。 「ガラスの靴は、魔法が解けても消えないから」 彼女の声が直に心臓に響いてくる。 「なんで魔法使いなの?シンデレラじゃなくて」 「だって、それじゃぁまるで好きって言ってるみたいじゃない」 悪戯っぽく笑った彼女は、放課後を告げるベルと共にぱたぱたと制服のプリーツを揺らして屋上を出て行った。 それは『どういう意味?』と訊く前に彼女はいなくなってしまった。 一拍置いて、彼女を追いかける。 屋上から三階へおりる階段の真中に、ヘタクソな字で名前の書かれた薄汚れた上靴が片っぽ落ちていた。 |