「空は嫌いだ」 私の膝の上に頭をのせて寝転がった彼が、ふいにそう言った。それきり、彼が口を開くことはなく私も黙って肩までの髪を風に揺らしていた。白い雲がゆっくりと流れてゆく。 「寝ちゃったの?」 顔を近付けてなるべく静かに声を出した私の唇に自分のそれを重ねて、彼は少し自嘲気味に笑った。 「好きだよ」 「・・・うん」 彼はいつも突然で―― 「疑ってる?」 自分だけ満足できればそれでよくて―― 「・・・少しだけ」 呟くようなキレイな発音と声は、いつも何かが足りないようで―― 「そう」 だから少しだけ不安になって信じられなかった。 彼はゆっくりと目を閉じた。触れた体温と上下する胸の動きを感じることができなければ、まるで彼は永遠の眠りを抱いているよう。彼の呼吸を聴こうと、私は目を閉じて全ての神経を耳に集めてみた。 「どうして、空が嫌いかきかないの?」 目を開けて、彼の瞳を見つめる。それはまるで見たこともないような真っ暗な闇。 「どうして?」 彼はいつもより多めに息を吸い込んで、少しだけ吐いた。それにあわせて、胸も大きく上下する。ああ、彼はやっぱり生きてる。 「手がとどかないからだよ」 「うん」 「自分の矮小さを思い知らされる」 「うん」 「でも―――」 膝が軽くなった。私のすぐ目の前に向かい合うようなカタチで座り込んだ彼は、私の髪を一房すくいとるとそれをちらりと、そして今度は私の目をしっかりと覗き込むように見つめた。彼の暗い瞳に、私の像が映っているのがわかった。 「でも、キミは手がとどくから好きだ」 「・・・そう」 私の髪をぱらぱらと落とした手が今度は私の左頬にゆっくりと触れる。 「信じる?」 「・・・少しだけ」 きっと、私は今、困ったように微笑んでいるんだろう。 「うん」 聞き流すのではなく、確認したような彼の返事が嬉しかった。 彼はまた、私の膝に頭をのせて寝転がった。彼は滅多に笑わなかった。だから私もあまり笑わない。そもそも、元々そんなに笑うタイプではなかったのだけど。 楽しいことがこの世にあるのかどうかすら、私たちはわからなくなってしまったのかもしれない。でも、それが悲しいことだとは思わなかった。それはきっと、彼も同じだと思う。 私たちが知っているのは、あの空には手がとどかないということと、2人は何故かこうやって、一緒に存在(いる)ってことだけ。それだけで十分だった。 彼は弱いヒト。さびしがり屋で、ひとりで泣くこともできないような。そして、それ以上にさびしいヒト。 でも、それは私も同じで、何度もお互いの存在を確かめたくて、確かめずにはいられなくて。少しの沈黙をはさんで何度も何度も呼びかける。 「どうして、何処かへ行ってしまわないの?」 「なに?」 「どうして、ボクから遠くへ行ってしまわないの?」 このヒトは、いつも無表情なのに。今だって、それは同じなのに。どうしてこんなに哀しそうな顔をするのだろう。 「――私は、何処かへ行ったほうがいい?」 彼の髪を梳かしていた私の手をぎゅっと握って、彼は今にも消えそうな声を出す。 「好きだ」 あなたは、それしか知らないの?私は少し苦笑して頷いた。 「私も。だから何処にも行かない。あなたにだけついていく」 「・・・・・・」 「嘘だと思う?」 黙り込んだ彼に尋ねる。 「さぁ?・・・でも、信じたい」 彼は少しだけ、口の端を持ち上げた。 それは、私だけにわかるもの。 「うん」 左手と胸のあたりがあたたかくて、なんだか涙が出そうで―― 「どうしたの?」 それでも、彼を不安にさせたりなんてできないから―― 「なんでもない」 私はそう答えていた。 「そう」 「そう、よ」 風が冷たくなってきた。 「そろそろ帰ろうか」 「うん」 「あの空が、手のとどくとことまでやってきたら、」 「うん」 「あなたは私を嫌いになる?」 「どうして?」 「――・・・べつに」 1mくらい、私より先を歩く彼。それに、けして追いつこうとしない私。道の両脇にはえた、名前のわからない背の高い草が風に揺れる。前を歩いていた彼が突然ぴたりと止った。それに気付いて私も足を止める。 「ならないよ」 私のほうへ、すっとのばされた手を掴んで、それから2人でオレンジ色に染まる砂利道を並んで歩いた。 「好きだよ」 「私も」 見上げた空はとてもきれいな夕焼け、明日もきっと晴れるだろう。もっとも、そんなこと私たちには関係ないけれど。 |